目次
サッカーに打ち込んだ学生時代
私は熊本市帯山で生まれ育ちました。
幼い頃は意外にも花を見るのが好きで、よく祖母と近所の花屋さんに行っていたそうです。
家族は治療家である父と専業主婦の母、3歳下の妹、祖父と祖母の6人暮らしです。
私の父は「あん摩マッサージ指圧師」という国家資格を持つ治療家で、幼い頃から私の母や祖父、祖母の治療をしている環境で育ちました。
よく父が開業している治療院に遊びに行ったときに目の前で症状が楽になり「先生、ありがとう」と患者さんが父に感謝を伝えている事を今でも覚えています。
小学4年生の頃に、友人が学校の休み時間に楽しそうにボールを蹴る姿を見て、すぐにサッカーの虜になりました。
しかし、友達と比べてボールが全く蹴れなかった為、「頼むからパスを出すな」と思っていたほどでした。
ボールを蹴れるようになるにはどうすればいいか?
そこで見出したのが壁に向かってひたすらボールを蹴ることでした。
毎日サッカーボールを壁に向かって蹴っていると、徐々に遠くまでボールが蹴れるようになり、いつの間にかコートの半分以上蹴れるようになりました。
この時初めて努力をする大変さと達成感の両方を味わった事を今でも覚えています。
中学時代もサッカーを続け、友人のプレーに憧れてゴールキーパーを志願しましたが、レギュラーを奪う事ができず悔しい経験をしました。
高校ではサッカーを辞めてしまおうかと悩みましたが、シュートを止めた感触が頭から離れず、高校でもサッカーを続けました。
柔道整復師との出会い
しかし選手権大会の直前の練習試合で人生初めて大怪我を経験しました。
左手の小指の骨を、相手選手に思いっきり蹴られ、骨折をしてしまったのです。
もちろんしばらくプレーはできなくなり、手術をする事になったのですが、手術後はリハビリをしても曲げづらさが残っており、「手術以外で治す方法はなかったのか?」と疑問に思い、高校のテスト期間中に市の図書館で見た「柔道整復師になるための本」という本を見て、「柔道整復師は骨折や脱臼を手で治せる仕事」なんだと知り一気に興味が湧きました。
父と同じあんまマッサージ指圧師を目指そうかと悩み父に相談をしましたが、怪我を治したりするのは柔道整復師の方が専門的だとアドバイスをもらいました。
「この仕事なら人の役に立つことができる」と確信し、柔道整復師の国家資格が取得できる専門学校への進学を決意します。
医学を学ぶ楽しさを知った専門学校時代
晴れて柔道整復師の専門学校に合格し、福岡県にある福岡柔道整復専門学校(現福岡医療専門学校)に入学します。
熊本には柔道整復師の免許が取れる学校がなく、初めて一人暮らしをすることになります。
一人暮らしに憧れがあったものの、今までは洗濯に食事と当たり前のようにやってもらっていたことを、自分でやる事がこんなにも大変だと感じた事を今でも覚えています。
この時初めて親の存在の大きさを実感したのかもしれません。
学校での勉強はとても大変でした。
解剖学や生理学、怪我を治す実技など初めての内容ばかりで、最初は苦労しました。
しかし、この学んだ事が将来の自分のため、患者さんのためになると考えると不思議と勉強も頑張ることができました。
同時に学校の先生からの紹介で整骨院で研修をするチャンスをいただきました。
ここで出会った先輩方はとても勉強熱心で、治療家としての基礎を教わりました。
私はまだ免許を持っていない学生の身だったので、治療の補助という立場でしたが、患者さんとのコミュニケーションの取り方や先生の治療の補助などできることを全力で取り組みました。
さらに先輩方は休みの日を使って勉強会に参加していることを教えていただきました。最初は全く休みがない大変さに戸惑いましたが、すぐに治療の奥深さや楽しさに魅せられました。
この時の体験が今も治療を学ぶ土台になっています。
新たな挑戦と過酷な修行時代
国家資格取得のため、仕事と勉強を両立した6年間は大変でしたが、将来「父のような治療家になりたい」という思いが支えとなり、無事に「柔道整復師」と「鍼灸師」の国家資格を取得することができました。
専門学校を卒業後、熊本に戻り、福岡に本社がある整骨院に入社しました。
入社した整骨院は、一般の方からスポーツ選手も通われている整骨院で、私が入社するタイミングで熊本に出店が決まっていました。
新規出店ということで最初はビラ配りから始め、なかなか受け取ってもらえず苦労しましたが、笑顔や挨拶を大切にすることで徐々に信頼を得ることができました。
この経験から、誠実に取り組むことの大切さや社会人としてのマナーを学ぶことができました。
晴れて院長に就任したが、上手くいかない毎日だった
新たに新店舗ができる事となり、私が今まで勤めていた店舗の院長を任せられる事になります。
私よりも実力も経験がある先生もおられましたので「なんで私が?」と最初は戸惑いました。
しかし、5年以内に開業を目指していた事もあり、院長になる決心をしました。
院長になった時にクレームが続き、スタッフから面と向かって厳しい言葉をもらったとき、自分の未熟さを痛感しました。
しかし、前院長に相談し、スタッフ一人ひとりの得意・不得意を理解し役割を分担することで、少しずつチームとして院が動き始めるのを実感しました。
さらに、ウイルス騒動で患者さんが一気に院から離れてしまった時も、スタッフと一緒に手紙を書くことで、多くの患者さんが戻ってきてくれました。
その瞬間、スタッフの成長と患者さんの笑顔に胸が熱くなったことを今でも覚えています。
このタイミングで、私は沸々と目標に掲げていた「整骨院の開業」を意識する事が増えてきました。
ここから、仕事の合間や休みの時間を使って開業の準備に取り掛かる日々がスタートしました。
独立の厳しさを知った開業初期
整骨院の開業に向け、熊本市内でテナント探しを始めました。
しかしウイルス騒動の影響もあり、なかなか理想の物件が見つかりません。
仕事の合間や休日を使い、1年間で30件以上の内見を重ねる日々が続きましたが、理想のテナントとなかなか巡り会えませんでした。
そんな時、最初に相談した不動産屋さんから「小竹さん!良いテナントが空いたけど内見にきますか?」とすぐに向かいました。
直感で「ここなら患者さんに最高の治療を提供できる」と感じ、翌日には仮契約しました。
この巡り合わせに、深く感謝しています。
開業日が決まり、準備を進める中、仕事をしながらの準備は想像以上に大変でした。
当時は院長として現場管理を行なっていたのでそちらをおろそかにすることはできませんでした。
しかし幼い頃からの夢である「整骨院を開業する」という熱い気持ちが私を突き動かしました。
トラブル等もありましたが2022年6月1日、熊本市中央区上鍛冶屋町に「かじやまち熊本鍼灸整骨院」を開業(現在は、こたけ鍼灸整骨院)
「やっと夢だった整骨院をオープンできた!」と当時は夢いっぱいでしたが、すぐに経営者として壁にぶつかります。
「患者さんが全然来ない」という現実でした。
前職での経験を頼りにしても最初の3か月は患者さんの数が思うように伸びず、会社員と経営者の違いを痛感し、開業したことを後悔することもありました。
また、このタイミングで当時お付き合いをしていた方と結婚した事もあり
なんとかしなければとチラシ1万枚の配布や夜間のポスティング、ネット広告での宣伝を行いましたが、家賃や光熱費、借り入れの返済で通帳残高はどんどん減り、不安な日々が続きました。
「このままでは家族を路頭に迷わせてしまう」と不安に思っていた時、先に開業していた先生と食事に行く機会がありました。
最初はちっぽけなプライドから相談をためらいましたが、先輩は「俺も最初はうまくいかなかった」と話してくれ、溜め込んでいた不安が一気にあふれ、涙がこぼれました。
「どうしたら患者さんに来てもらえますか?」と尋ねると、「目の前の患者さんを家族だと思って治療してみたら」とアドバイスをもらいました。
そこからは新規集客ではなく、今ご縁をいただいている患者さんの満足を第一に考えるようになりました。
痛みを取ることだけでなく、院内の清掃や身だしなみ、言葉遣いなど改善できることを一つずつ実践。
すると少しずつ、「あんなに痛かった腰が良くなった」「先生は一生懸命だね」と言っていただけるようになり、大切なご家族をご紹介いただくことも増えました。
地域に受け入れられている実感を得るとともに、患者さんの数も少しずつ増えていきました。
少しずつ地域に認知されてきたが、保険請求の問題が立ちはだかる
開院から1年、地域に少しずつ認知され、患者さんも増えてきました。
スタッフ採用も考えましたが、熊本には柔道整復師の専門学校がなく、求人には反応がありませんでした。
そんな中、高校サッカー時代の教え子から「働かせてください」と連絡が入り、採用が決定。
順調かと思われた矢先、整骨院での保険不正請求のニュースがある雑誌に記載され、「整骨院=不正」のイメージが世間に広がってしまいました。
整骨院で本来保険が使える症状とは「外傷(がいしょう)」と呼ばれる、いわば「ケガ」にしか使う事ができません。
例えば昔から痛い腰痛や肩こりなどは当然使う事ができないのです。
しかし、当時は業界の流れからそのような症状も保険請求する時代でした。
今まで来院なさっていた患者さんの中にも来院をやめる方もいました。
また中には、私の事を信頼していただいていた患者さんにも「先生のところは不正してないよね?」と質問をされる方もいました。
この時初めて体調も崩しました。
さらに、採用予定だった学生の子も採用が難しくなり、事業の先行きが見えない状況に立たされました。
そんな中、妻の妊娠が判明。
最初はあまり実感がありませんでしたが、徐々に嬉しい気持ちが湧き出るとともに、「産まれてくる子供にとって誇れる父親」にならなければいけないとこの時決心した事を覚えています。
その時、私が治療家を目指したきっかけを思い出したのです。
僕が痛みで苦しんでいる時に治してくれた父親のように、地域で身体の不調で苦しんでいる患者さんを治す。これこそが私の使命であり、そして憧れた治療家の姿でした。
「産まれてくる子供に誇れる父親になろう」「肩こりや腰痛は自費診療で支える整骨院を作る」と決意しました。
保険に頼らず、技術と人間性で患者さんに頼られる院を目指し、新たなスタートを切りました。
自分の子供が大きくなった時に誇れる仕事を目指し、治療院の方向性を転換
迷いながらも、私は保険治療から自費治療に切り替える決断をしました。
今までの料金の約3倍をいただくことになり、案の定、患者さんの多くが通院をやめられました。
「自分の治療が選ばれていた」と思っていたのは勘違いで、多くは保険が使えるから通っていただけだったと気づき、衝撃を受けました。
院に来院される患者さんの数は保険を使っていた時の4分の1まで減ってしまいました。
開業当初よりも少なくなっていく銀行通帳に、当時は寝れない日々が続きました。
院の存続すら危ぶまれる中、私は妻に「院を閉めよう」と打ち明けました。
しかし妻は、「本当に体が悪い人には、話を聞いて落ち着ける場所で治療を受けてもらうべき」と言いました。
その言葉で、自分が見落としていた大切なことに気づきました。保険診療中心の院では、回転率を上げることが優先となり、患者さんが落ち着いて治療を受ける環境を作れていなかったのです。
そこで院内の余計な物を片付け、ベッド数を減らし、各ベッドをカーテンで仕切ることで、患者さんが安心して集中できる空間を作りました。
結果、「落ち着く」「周りの目を気にせず治療できる」「リラックスできる」と喜びの声が増え、少しずつ患者さんも戻ってきました。
そして、保険治療を中心とした整骨院から、自費治療専門の治療院へと大きく方向転換したことを機に、2026年4月、「かじやまち熊本鍼灸整骨院」から「こたけ鍼灸整骨院」へ院名を変更しました。
院名に自分の名字を掲げたのは、これまで以上に自分自身が治療に責任を持ち、一人ひとりの患者さんと向き合う治療院でありたいという思いからです。
さらに治療技術を向上させるため、関西まで足を運び研鑽を続けています。
治療を受けてみたいけど「介護と仕事の両立で治療を受けたくても時間がなくて通えない」「整骨院で治療を受けたくても、足が悪くて通えない」というお悩みのお声を聞き、右も左もわからなかった私をここまで育ててくださった地域に恩返しができないかと考え、無料で腰痛や肩こりを解消するセミナーを定期的に開催する事にしました。
今では、病院や他の治療院ではならなかった患者さんが当院に来られ、治療の傍ら、体の悩みを解消するイベントを開催し、地域の慢性痛で悩んでいる患者さんを救う活動を継続しています。
父に憧れた治療家という仕事は、痛みで苦しんでいる人の悩みや症状を治す事が大切な事だと改めて気づく事ができました。
これからも、地域から腰痛や肩こりで悩んでいる人が一人でも少なくなれるように尽力していきます。
(監修:柔道整復師・鍼灸師 小竹翔太)